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今年も桜の開花の季節となった。陋居の近くの公園を通りがかったら、梢の先の方にちらほらと花が開き始めていた。このところ、真冬並みの寒さであったので、満開になるまでには、まだ少し時間がかかりそうだ。

さて、毎回Amigaのデモばかりアップロードしていても芸がないので、年に一度ぐらいは、真面目な記事を。新古今和歌集の影印本から二首ほど選んで掲載する。


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梅雨入りしたばかりなのに、昨日は五月晴れで午後からは気温が高くなった。外出を午前中に済ませ、午後は冷房を入れて影印本で和歌を読んで過ごす。
夏歌の中で気に入っているのを二つほど。

右は、藤原定家筆の「古今和歌集」に収録されている
「さつきまつ(松)花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする」
というよみ人知らずの歌だ。折に触れて引用されることも多く、古典落語などでも前振りに使われていたりする。

歌意については、特に解説の必要もないほど判りやすいが、予備知識として、当時の貴人は、それぞれ気に入った香りを衣類に薫きこめていたということは知っておく必要があるだろう。

ここで言う「花橘」というのが現代のいかなる植物に対応するのかについては、いくつかの説があるということだが、柑橘類系の「コウジミカン」などとする説が有力らしい。初夏に白い花を咲かせるそうだが、私は未だ実物を見たこともないので、香りについてもわからない。ちなみに奈良、平安時代を通じて、この花の香りは、過去を想起させる働きがあるとされていた。

作者の性別についても不明だが、この歌が引用されている伊勢物語の六十段では男性の作とされている。

さて、左側は、式子内親王の歌で、新古今和歌集の夏歌として収録されている、
「かへりこぬむかしをいまとおもひねのゆめのまくらににほふたちばな」
という歌である。頭書きに「百首歌奉りし時夏歌」とあるが、これは後鳥羽院の命で正治二年(1200年)に詠進されたものであることを示している。式子内親王は、建仁元年(1201年)に薨じているので、死の一年ほど前、50歳を過ぎた頃の作となる。

両者共に、「橘の香り」による追憶をテーマとしているが、成立年代の違いもあってか、私にはこれらの歌から受ける印象は全く異なる。

前者の「さつきまつ...」の方は、技巧的にも発想的にもナイーブで、「か(香・嗅)」が三度も出現するところなどは、稚拙な印象すら受ける。であるにも関わらず、この歌が、勅撰和歌集に収録され、今日まで人口に膾炙しているのは、その素朴さと、ふとした追憶が五月を待つ明るい空の下で未来に向けて解き放たれてゆくような大らかな気分が感じ取られるからではないか。少なくとも、作者は橘の香りに誘われて追憶に耽りつつ、決して将来に対する希望を捨ててはいない。そこには人生に対する健全な姿勢を読み取ることができる。よみ人しらずの作者は、当時それなりの人生経験を積んではいたものの、人生の盛りはこれからで、自らの運命に対する期待感の中で毎日を送っていたのではないかと私には察せられるのだ。

他方、式子内親王の歌は、前述のように死の一年ほど前の作である。彼女の時代は、平家物語や方丈記に見られるような乱世であった。事実、彼女自身の同母兄弟である以仁王は、平家討伐の首謀者との理由で処刑されている。

こうした時代背景と彼女の置かれた境遇、そして自らの死期が迫っていることを悟ったかのような人生観が、この歌に何とも名状しがたい深い陰影を与えているように思う。技巧的にも、当時の「本歌取り」の手法が用いられており、前述の「さつきまつ...」以外にも類想歌が複数指摘されている。

しかし、このような表現形式上の問題は、この歌を鑑賞する上でのほんの一部に過ぎない。同じ橘の香りを主題に据えながら、この歌には前者の偶然によるほのかな追憶をはるかに超えた過去に対する強い想いが感じられる。それはまるで、人生の過ぎ去った時間が、彼女の精神を巨大な力で吸い寄せているかのようである。そこには、楽しみや悲しみだけではなく、今となっては叶えることが不可能な物事についての後悔と慚愧の思いが、暗い情念となって渦巻いているのだ。

この思いは、裏を返すと近い将来に迫った死に対する、抜き差しならない緊迫感の表れでもあろう。事実、この歌を詠んで一年後には、彼女は世を去っているのである。人間とは、いつかは死ぬ存在であるということは、古今東西誰一人として受け入れざるを得ない厳然とした真実だが、それが具体的な事象として立ち現れ始めた環境にある一人の女性の、鋭く研ぎ澄まされ張り詰めた精神の有りようが、この一首の中に凝縮していると言ったら大袈裟であろうか。

最後に、音韻学的な感想を少々。

両歌の各句の最初の音と最後の音を比べてみる。

つきま なたちばな をかげ かしのひと でのかぞす

へりこ かしをいま もひね めのまくら ほふたちば

初音は、似たようなものであるが、前者は、上の句が総て「あ」音で始まっているためか明るい印象だ。
注目すべきは、終音で、前者が「つ」「の」「ば」「の」「る」とばらついているのに対して、後者は、「ぬ」「と」「の」「に」「な」と第二句を除くとすべて「な」行である。個人的な感想に過ぎないのかもしれないが、「な」行の音は、「ない」「ノー」「ノン」「ニエット」と各国語でも否定を表すのに用いられていることが多いように思う。各句の語尾のほとんどが「な」行で終わっていることも、この歌に仄暗い、退嬰的な印象をもたらしているのではないだろうか。



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昨日の土曜日の午前中は、素晴らしい花見日和だった。季候も良く、近所の桜の大木も満開である。快晴ではなく、白い雲が少しかかっているのも何とも言えない風情があると思う。当分の間は、風雨が強まることはないとの予報なので、花持ちは良さそうだが、そうは言っても桜だ。せいぜい十日だろう。満開を過ぎて、花びらが舞い始めると、それはそれでまた格別の趣がある。たかが桜、されど桜なのだ。

このような、うつろいやすい風物に異常とも思える情緒を見いだすのは、やはり日本人特有の気質なのだろうか。はるか奈良・平安の時代から、桜を愛でる和歌は枚挙にいとまがない。「古文で花と言えば桜」と古典の教師に教わったが、それはちょっと極端にしろ、あまたの植物の中で、これほどの関心を集め、様々な形で表現されてきたものはないことは確かだろう。

と言うわけで、私の好きな和歌を影印本から二首ほど。

waka01.jpg右は「伊達本   古今和歌集  藤原定家筆   久曽神昇[編]」(笠間文庫影印シリーズ)から、左は、「新古今和歌集<上>   穂久邇文庫蔵   伝二条為氏筆   後藤重郎[編]」(笠間書院)からの抜粋である。残念ながら後者はいまのところ絶版のようだ(古書店には結構在庫があるようだが)。

影印本を読むというのは、なかなか面白い。中世には、まだ仮名表記が一定してないので、同じ字母(漢字)から複数のひらがなが生成し(これらを変体仮名と言う)、それらが同じ文書の中で様々に用いられている。国文学者ではないので、詳しいことはわからないが、字母との関係さえ覚えてしまえば、何となく読めるようになってしまうというのが、人間のパターン認識能力の優れたところだと思う。

右は藤原定家、左は二条為氏の筆とのことだが、見てのとおり、定家の方は大らかで自由奔放な印象であるのに対して、為家の方は、生真面目で繊細な印象を受ける。こうした情報は、現在の活字に置き換えられた古典文学書では決して判らない。そこはかとなく本人の人柄が感じられて、こうした影印本を読むのは楽しいものだ。

さて、とはいっても初めての人には、わかなない文字が多いと思うので、現代の活字で表記したものと、変体仮名の字母がなにかを記しておく。(因みに、ボールド+アンダーラインで表記されている部分は、元々漢字で表記されている)


心地そこなひてわづらひける時に風にあたらじとておろしこめてのみ侍りけるあひだに折れるさくらのちりがたになれりけるを見てよめる  藤原よるかの朝臣

たれこめて春のゆくへもしらぬまに待ちし櫻もうつろひにけり

心地曽己奈此天和川良此介留爾安多良之止天於呂之己女天乃美介留安飛多爾禮留佐久良乃知利可多爾奈禮利介留遠見天与女留   藤原与留可乃朝臣

堂禮己免天乃由久遍毛志良奴万爾万知之毛宇川呂此爾介利


皇太后宮大夫俊成
またやみむかたののみののさくらがりはなのゆきふるはるのあけぼの

未多也美武可多乃ヽ美乃ヽ佐久良可里者那由支布留者留安遣本乃


それにしても、私には、これらの歌が中世の無常観といったもので通底しているように思われてならない。藤原よるかは、病床に伏して、壺に活けられた櫻の花びらが散って行くのを見て「今年の櫻の季節も過ぎ去ろうとしている」と詠み、俊成は、「交野のお狩場で再び櫻の花を見ることがあるのだろうか」と詠んでいる。そこにあるのは、この一年間を生きながらえて新しい春を迎えたという感慨と、来年の春が再び自分に巡ってくることがあるのだろうかという茫漠としてとらえどころのない生への不安だ。これは存外、遙かな時を隔てて現代の日本人の感性にも受け継がれていているのではないかと思う。


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