トマソン:無意味の意味

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吉祥寺の横丁を曲がると、午前中の日射しが真横から射した建物の表面に地名と番地の一部がエンボスとなって残っていた。街で良く見かける焼付け鉄板の住所プレートが剥がれ落ちた後に、それが取り付けられていた外壁の吹き付け塗料の凹凸として、その痕跡をとどめたのだろう。ベージュ色の壁には青い落書きがあり、それが「寺本町」と読める文字と重なり合っている。

何となく、昔はやった「超芸術トマソン」という言葉を思い出した。もっともこれは、超芸術というほど大仰なものではなく、普段なら誰も気にしない程度の壁のでこぼこだ。たまたま光線の具合で、それが浮き上がって見え、その場所を通りかかった暇人の私が、酔狂にも携帯のローレゾカメラで動画撮影したというだけのことである。

しかし、本来何らかの意図に基づいて設置されたものが、もはやその必要性を失ってしまった後も、何らかの形でその痕跡を留め、それを見る側が、それが本来有していたのとは、微妙に異なる意味をそこに見いだすという局面において、これもまたトマソンの一種なのだろう。機能的には無意味と化した何物かが、それでもなお別の意味を持つというのは、意味という言葉の根源にかかわる問題なのかもしれない。学生時代に読んだジーン・ブロッカーの「無意味の意味」という本のタイトルを思い出した。

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